いつものカフェで、紅茶をサーブして貰いながら、ぼんやりと窓の外を眺める。沢山の交差点にはマスクをした人々が点在している。
いつまで経ってもその光景に、私は慣れない。そんな法律は何処にも存在しないし、こんな光景は日本くらいのものだ。
1960年代のパリの旅行記を読みながら、私は考える。最早、我々は鎖国状態にあり、コロナという黒船によって、島ごと飲み込まれてしまった。
どんどん貧乏になることは予想されるが、未だに東アジア圏では、憧れの対象として見られるケースも存在する。不思議なものだな、と感じる。
アメリカ人が韓国の音楽を聴き、日本のアニメを見て、中国に脅威を感じ、カタールではサッカーのW杯が開催される。
「カリフォルニア化」するポストモダン。という構造主義では、ジョージ・オーウェルの「1984」が今まさに現実化され、これが小説の力なのかと思う。
ITの巨人は過去のものになり、「You」の時代になり、また「個」の時代になっている。会社や組織や政府は一体誰のものか分からなくなり、贈与経済が幅を利かす。
この時代にアジャストすることは容易いが、誰も答えを見いだせないでいる。歴史は繰り返す、というが、こんな歴史は過去には無くて、どうも困った。
ただ私は朝起きて、歯を磨き、散歩して、朝飯を食べ、外へ出かける。全く変わらない日常ではあるが、確実に歳を取っている。
つまり、「死」に向かっているという事は不変で普遍なのだ。それが世界か、私か、この島国か、の違いでしか無い。
ダラダラと続く、このゲームでは夏の暑さにやられて、皆、疲弊しきっている。彼女は言う「責任感なんて勘違いよ。単なる依存」だと。身も蓋もない言い方。
どうも現在は、ジャンプを読むのも女性だし、小説を書くのも女性。「文化の担い手」という言い方は出来るが、それは多大なる犠牲が伴っている。
どんな時代にも問題は存在したし、中島みゆきのSONG BOOK が最も現代的テキストであるのは間違いない。ドロドロしたの好きだし。
衰退とも老成とも見分けが付かないが、世界的異常気象の多くは、今までのツケであり、皆が一生懸命働いてきた結果である。皮肉な事に。