「対話」ですね。所謂「オープン・ダイアローグ」というやつ。北欧が発祥の新しいケアの方法論。ま、分かりやすい。
日本語に訳すと、「開かれた対話」となるだろう。そう、答えはないのだ。90年代の池袋の若者たちが、ひたすら「ダベる」かの如く。
そう、彼らはひどく「健全」だった。しばしばヤンキーには、ある種のポジティブな精神が存在する。「閉じた状態が一番開いている」というのは正しい。
ななこは「語る」そう、自分の事にしか興味はない。他者とは常に自分の鏡であるから。ここで問題になっていくのは、「日本語の持つ昏さ」である。
日本映画の問題である「昏さ」が、ここでも証明される。宮崎駿の功績は、その昏さを決して描かなかった事だ。
「アニメーションの可能性」はただ一つ。そう、「言語の無効化」である。線というか、指というか、顔というか。そこに「萌える」訳だ。
黒澤明が世界的に評価される理由もまさにそこにある。「カメラ・アイ」で語る。どうしても言葉に囚われがちな我々を開放してくれるのが、ひどく冷たいレンズである。