ななこ♂の部屋

小説「プログラミング・ガール」を書いています。

何故、アジカンは2022年にアルバムを発表するのか?

 世界にコロナが蔓延し、ロシアとウクライナでは正義のない戦争が行われている。はたしてそこに「音楽の徴候」は見つけられるのだろうか?

 先の見えない閉塞感が、そこにはあり、人々はまるで宗教のようにアニメと漫画に没頭する。マジで終わってる、日本は。

 「人生に文学を」と言っても誰も小説なんて読まないし、何なら本屋なんて何処も潰れていて、まともな本なんて売っやしない。

 他人に依存することしか考えてない人々は、会社に依存し、仕事に依存し、子育てに依存する。そこには精神的余裕なんてなくて、ただ疲弊してゆく。

 そんな世界にはたして「音楽の力」なんて無力だ、ということがあからさまに証明されてしまっている。そこにこのアルバムである。

 今どき、「作品」であるアルバム制作に意味はあるのか?ストリーミングで消費されている音楽業界に於いて、それがまだ有効なのだろうか?

 一曲一曲が意味を持つ。ただキャッチーであれば良い、という現代のポップスに於いて、真逆の方向へ向かっているこのアルバム。

 私は生活には、タバコ代とカツカレーとカフェラテがあれば充分な人間である。本当の幸せ、を見せてくれると、川尻こだまは言ったが、はたしてそうなのだろう。

 私には本物の音楽は「栗山夕璃」で充分で、最早そこに入り込む余地はない。カネの掛からないアニメばかりではツマラナイ。

 そんな時代にロックなんて形骸化され、「愛と平和」は何の意味もなかった。ジョン・レノンは死んだし、街は綺麗になりすぎた。

 私にとって初めての親からの自立は、まあまあ上手くいったり、失敗もあったり。つまり順調である、ということだ。

 西村賢太は「女はカネで買うもの」という名言を残し、幸せに死んでいった。私は酒は飲まないから、どうでもいいが。

 このアルバムはコロナ禍において、はたしてまだ「音楽が有効性を持っているか?」という実験めいたものがある。それを私は愛とは呼ばない。